新港鉄橋と象の鼻パーク「JMAものづくりポータルコラム」

 横浜港の観光名所の一つに、大さん橋の根元近くの象の鼻パークがある。ここには、少し曲がった防波堤があり、これを「象の鼻」と呼んでいる。現在ある象の鼻防波堤は、開港時に作られたものとは別に、新しく作られたものだが、形や大きさなどはほとんど当時のものを模して作られている。

 ■象の鼻
 湾曲しているが、長さは約106メートル、幅3.8メートル、水深2.0メートル、石造りだが一部ブロックが使われている。
 最初に作られたのは慶応3(1857)年のことだ。はしけへの積み込み、積み下ろしが安定してできるように防波堤を兼ねた湾曲した埠頭を外国船向けに建造した。
 象の鼻という奇妙な呼び名がついた理由は、この屈曲した埠頭に象の鼻という名前が付けられ、地域の人たちからそう呼ばれるようになった、とのことだが、当時の日本人には象はなじみのない動物。見た人はほとんどいない。となれば、外国人が呼び始めた名前ではないのか。
 屈曲している理由は、内側にはしけの船泊があり、防波堤としての役割も持たせたためにこうした形になった。この正面に運上所を作り、ブラントンによって、そこからまっ直ぐに道路を作って先端に横浜公園を造った。最初の近代的な都市計画といってもいい。
 
 大正2(1913)年に新港地区に鉄道路線が敷設された際には、鉄道は象の鼻地区まで延長され、ここで荷下ろしする貨物も鉄道で輸送されるようになった。ここから先の山下埠頭まで線路を敷設したいところだったが、海岸との間にスペースがなく、線路が延長されるのは戦後になってのことだった。
 しかし、新港埠頭や象の鼻の根元部分を拡張して大桟橋が作られると、はしけで往復して荷物を積み替えるのは手間がかかるとして、象の鼻は小型船の荷上場として利用されるようになり、内側が小型船の船溜まりとして利用されるようになった。
 関東大震災では、象の鼻は沈下し根元部が崩壊したために、ブロックなどを使って改修されたが、その後は荷上場の埠頭としてではなく、防波堤としての役割を果たすようになっていた。現在の象の鼻とほぼ同様の機能になった。

 いま、象の鼻パークとなったここに、転車台の遺構が表面に透明の樹脂版で覆い、展示されている。レール幅は鉄道と同じ1.06メートルで、回転台の直径は2.5メートルほど。荷物運搬用の台車ようらしいと説明版に書かれているが、大八車ではなく、わざわざレールを敷き、回転台を設ける有効性がよく分からない。

■新港鉄橋
 新港地区から赤レンガ倉庫の横を通って象の鼻まで臨港線が延長され、大正元(1912)年、新港地区と象の鼻の間を鉄橋でつなぐ新港橋梁が設けられた。この新港橋梁は、大蔵省臨時建築部が設計したという珍しい鉄道橋で、浦賀船渠株式会社で作られた100フィートのポニー型のワーレン・トラス橋。汽車道の港三号橋梁よりも両側のガードが少し高めに作られており、ワーレン・トラス構造としてはタテの支えケタが入れられているあたりは、震災後の強度を補強した独自の工夫のように見える。
 浦賀船渠は明治32(1899)年に浦賀に作られた造船所で、のちに、住友重工業㈱浦賀造船所となるが、大正時代に入ると、造船と並んで鉄鋼構造物づくりが大きな事業の柱になっていた。
 
 いま、ここから先は、山下公園まで、高架でつながった遊歩道「山下臨港線プロムナード」になっているが、このプロムナードのコースは昭和40(1965)年に線路が敷かれ、鉄道が走っていた線路だったことはあまり知られていない。
 象の鼻から山下公園まで線路が敷設された昭和40年には、貨物の中心はトラックによる一貫パレットやコンテナ輸送、さらに航空機の時代に移りはじめており、鉄道の敷設は“時すでに遅し”の感があった。
 昭和31年まで米軍に接収されていて、周辺がその体制ができていなかったなどの影響もあり、利用は進まず、線路は延長されたものの期待されたような効果的な働きもできず、廃止される運命にあったのである。
 

新港地区、象の鼻、大桟橋の位置関係がよく分かる昭和初めの地図。


真ん中を右から左へと伸びているのが象の鼻。右にタテに伸びているのが大さん橋。手前を左右に通っている高架通路が、元鉄道線路があった遊歩道のプロムナード。


荷役用に台車のものと思われる転車台の遺構が掘り起こされ、透明の樹脂版でおおわれて展示されている。


橋の向こうに赤レンガ倉庫が見える。左手前に説明版が置かれている。


設立されて10数年、造船だけでなく鉄鋼構造物にも実績を積み重ねつつあった浦賀船渠の銘板がついている。


ワーレン・トラス構造にタテのケタが入れられている独自の構造。浦賀船渠で作られた。

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執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

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