開港3か月後には木曽から売り込みに横浜へ(JMAものづくりポータルコラム)

嘉永6(1853)年ペリーが4隻の黒船で浦賀にやってきて、開国を迫ります。幕府はやむなく翌年、米国をはじめ英ロ仏蘭の5カ国と和親条約を結んだ。そして、安政5(1858)年に5カ国と修好通商条約を締結し、翌、安政6(1859)年以降、箱館・下田に続いて、順次神奈川・神戸・長崎・新潟の4港を開くことを約束した(下田は、横浜開港で閉鎖した)。
そして、神奈川の港として幕府が急遽開いたのが、わずか数十戸の家が、山手から砂州が広がる横浜だった。幕府は突貫工事で横浜の砂州を整備し、東海道から取り付け道路(よこはま道)をつくって、横浜に港を開いた。
こうして、八王子から横浜の新港までつながる、絹の道が完成し、横浜が開港した。よこはま道の開港場の入り口に吉田橋を設け、攘夷を叫ぶ武士を警戒してここに関門を設けた。ここから先を「関内」と呼んだ。
安政6(1859)年といえば、京都では勤皇×佐幕が激しく覇権争いをし、攘夷のあらしが吹いていた時期だった。まだ新選組ができる前のことである。
幕府は、外国商人との取引を行うため、出入りの商人に声をかけて新港場に店を構えさせた。開港を知った一攫千金をもくろんで多くの商人が横浜にやってきて、外国人用の居留地もでき、取引が始まった。

「中津川の商人、萬屋安兵衛、手代嘉吉、同じ町の大和屋李助、これらの人たちが生糸売込みに眼をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃を出発してきたのはやがて安政六年の十月を迎えた頃である。・・・」。木曽路はすべて山の中である・・・で始まる島崎藤村「夜明け前」の第4章の書き出しである。

『夜明け前』は、幕末から明治にかけての動乱期に生きた、木曽・馬籠本陣の跡継ぎ青木半蔵の半生を歴史とともに描いたものだが、第4章は、中津川の商人が物見高い老医者宮川寛齋らを伴って横浜の生糸売買の様子を見に行くところから始まる。
これを読んで驚くのは、木曽の山の中・馬籠の商人でさえ、なんと、安政6(1859)年7月1日の開港後、わずか3か月という時期に、横浜に生糸を売り込みに行こうとしていることである。この情報伝達の速さ、行動の速さ、様子を見てみたい、生糸が売れるなら私も売り込みに行きたい、と出かけてしまう物見高さ、野次馬精神、機動力。これこそ、日本人の特性であり、近代化を急速に進めたエンジンといってもいい。

中津川から江戸に行くには、馬籠峠を越えて木曽路に入り、中山道を通って塩尻-軽井沢-高崎-板橋と経て江戸に入る。距離は85里(約340km)、山道で10日を越える行程である。その意欲たるや尋常ではない。藤村も、「中津川から神奈川まで百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶということは容易ではない」と書いている。
ここでは、塩尻から甲府へと出て八王子に回り「絹の道」を行くという選択肢はない。当時の甲州街道は険しい山道で荷駄を積んで通れる道ではなかった。信濃を北に上り、追分を経て軽井沢-高崎を通って江戸に出る。半蔵らは、いったん江戸の定宿に入り、その宿の主人の案内で横浜の牡丹屋なる宿に止宿する。まだ横浜に居留地も宿もない開港直後のことである。


⇒中山道のルート。
中山道は、中津川から北に長野県を北上し、軽井沢に出て碓氷峠を下り、高崎-板橋を経て江戸に出る、大回りのルートであることがわかる。今なら中央高速で甲州街道を下れるが、当時は小仏峠などの難所があり人馬で越えられなかった。

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執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

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