神奈川宿と横浜(JMAものづくりポータルコラム)

当時の横浜がどんな状況だったのか、もう少し『夜明け前』で見てみよう。通商条約の締結によって、幕府は、神奈川の対岸にある山手から突き出た戸数わずか50戸ほどの砂州「横浜」に港を作ることになり、幕府はあわてて埋め立て地を整備した。
「あるところは半農半漁の村民を移住させた街であり、ある所は運上所を中心に掘っ建て小屋の並んだ新開の一区画であり、あるところは埋め立てと縄張りの始まったばかりのような畑と田圃の中である」
横浜港を開くと、外国の領事館員や商人たちが押し寄せてきた。しかし、十分に住む場所が確保されているとは言い難かった。下田から移った各国の領事館員たちは「さみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったん仮寓を定めた本覚寺や他の寺から動こうとしない」。
「神奈川在留の西洋人は諸国領事から書記まで入れて、およそ四十人は来ていることがわかった。・・・二十戸ばかりの異人屋敷、最初の居留地とは名ばかりのように隔離した一区画が神奈川台の上にある」。

まだ、港に居留地が作られていないために、外国人たちは神奈川宿の中で料理屋などが並ぶ神奈川宿の台町に住んでいた。現在の横浜駅西口の鶴屋町の高台である。
 「黒い館門の木戸を通って、横浜道へ向かった。番所のあるところから野毛山の下に出るには、内浦に沿うて岸を一廻りせねばならぬ。程ヶ谷からの道がそこに続いてきている。野毛には奉行の屋敷があり、越前の陣屋もある。そこから野毛橋を渡り。土手通りを過ぎて、仮の吉田橋から関内に入った」。

 港を作って外国人が入国してくると、攘夷を叫ぶ士族や暴漢から外国人を守るために関門が設けられた。当初、開港場に外人用の居留地を作る予定が間に合わないので、外国人を集めて神奈川台町の一角に住まわせた。そして、暴漢が入れないように東西に関門を作った。それが「黒い館門の木戸」であり、番所を置いて見張りが付いた。


⇒1865年当時の横浜地図。
地図が逆に入っていますが、これを時計方向に30度ほど傾けると、正しい「北が上」の地図になります。黄色が外国人居留地、ピンクが日本人商店街、白は湿地で、中にあるのは遊女屋。現在横浜スタジアムがあるところだ。(『絹と光―知られざる日仏交流一〇〇年の歴史』 クリスチャン ポラック著、アシェット婦人画報社 2002より)

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執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

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