生糸取引の先駆者--中居屋重兵衛「JMAものづくりポータルコラム」

横浜の生糸商と言えば、原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛、小野光景、若尾幾三、平沼専蔵・・・等の名前があげられるが、先駆者としての貢献度で中居屋重兵衛をあげないわけにはいかない。単に生糸輸出で財をなした横浜開港時の立役者というだけでなく、幕末から明治への動乱期を駆け抜けた風雲児とでもいう人材だ。

 中居屋重兵衛は、群馬県嬬恋村出身で、幼名を武之助、成人して撰之助という。家伝の火薬製造の技を身につけ、江戸の書店に寄宿。書店で独立を機に中居屋重兵衛を名乗る。おりから沿岸防備に火薬が求められ、そこで見込まれて、火薬の製造に乗り出す。
 1857年、38歳の時に、たまたま知り合った米国領事館員と生糸の取引を行うようになる。幕府が、横浜開港を決めたさい、御用商人である三井屋(三井物産)や中居屋重兵衛に出店を要請、そこで重兵衛は本町4丁目に店舗を構える。

その後、横浜での生糸取引がブームとなり、中居屋は信州・甲州・上州と精力的に取引を伸ばし、店は繁盛して財を成す。本町に構えた店舗は2階建てで屋根を銅葺きにしたもので、あかがね御殿と呼ばれる豪壮なモノだったという。重兵衛の好況を見て、後の続くものが増え、横浜が生糸取引の中心地となって日本中の生糸が横浜にくるようになった。横浜で生糸取引商を事業化した先駆者だったが、その後、火薬製造などで井伊直弼との関係などを疑われて失脚。重兵衛が生糸商として活躍したのはわずか3年ほどのことだが、まさに風のごとく通り過ぎた風雲児であった。

本町2丁目の角に設置されている中居屋重兵衛店跡の碑。中居屋重兵衛は群馬県の嬬恋村出身で、幕末から明治初めにかけて、火薬の製造で財を成し、開港時には貿易商として店舗を構え、生糸取引の半分を扱ったという。隆盛を誇ったが、間もなく歴史の舞台から消える。横浜貿易の黎明期に台風のごとく通りぬけた傑物である。現在は、日本生命横浜本町ビルが建っている。 


⇒中居屋重兵衛店跡に建つ記念碑。
本町2丁目の角に設置されている中居屋重兵衛店跡の碑に描かれた当時の様子。図の中央にある赤い家が中居屋。右手前が日本人商店街、左の方が外国人居留地である。右端の右に伸びている道が吉田橋へ続く「馬車道」。

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執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

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