横濱-新橋に鉄道が敷設される(JMAものづくりポータルコラム)

こうして横浜に生糸が集まるようになると、絹の道が大いに利用されるようになる。近代化に生糸の輸出が不可欠との理解のもと、いかに生糸を横浜に集めるかが重要になり、大量輸送を可能にする船便の定期便が江戸と横浜に間に始まる。同時に、かねてから検討していた鉄道敷設の話が持ち上がり、計画が立てられる。

線路を敷く必要があるが、問題は神奈川から先だった。東海道を進むならば、鶴見-神奈川ときて、浅間下まで敷き、そこで南下して、平沼-野毛-吉田橋と大きく迂回することになる。見れば海を隔てて神奈川の向かいに横濱がある。イギリス人鉄道技師のモレルの設計・監督でスタートした工事で、神奈川から横浜までの鉄道敷設を請け負ったのが高島嘉一郎だった。

高島は、青木橋で東海道と別れて、真っ直ぐ海に堤防を築き、堤の上に線路を敷いて、野毛山下に横濱停車場(現桜木町)を作った。高島が請け負った契約は、晴天140日以内で工事を終えるという難しいものだったが、これを見事に完成させ、海を突っ切って走る堤防を高島町と名付けた。線路、道路以外は高島が自由に使ってよいという条件で、「高島町」と名付けた。

写真に見える中央の橋が青木橋でこの橋を左から右に東海道(国道)が下っている。東海道の下をくぐって線路が敷かれ、そのまま海の中に土手を築いて、野毛山下まで進んだ。先に見えるのが横浜停車場。右手の森が本覚寺。現横浜駅は青木橋の先で当時はまだ海だった。(「ハマ発newsletter第18号」横浜都市発展記念館より)

埋め立ての土は、現在の青木橋の近く、海側にあった権現山を切り崩して使った。
鉄道の敷設で生糸搬送の便が良くなった横浜港は、ほぼ独占のかたちで生糸輸出を担当し、港湾施設を拡充させて急速に発展していく。この間、八王子からの絹の道は生糸輸送の最短ルートとして大いに活用されるが、明治41年、横浜線が開通すると、長い間生糸を運ぶ最短ルートとして利用されてきた「絹の道」は役目を終える。横浜開港から約半世紀、一本の細い道が、歴史に輝いたのはわずか数十年のことだった。


⇒新橋-横浜の鉄道敷設工事中の青木橋付近(上)と、現在の青木橋付近(下)
青木橋を右に行くと、広重描く神奈川台町である。線路の先が横浜駅(現・桜木町)で、内海の向こう側は平沼。現在の横浜駅も、桜木町までの間も当時は内海であったことがわかる。現在の写真の中央奥に横浜駅西口のベイシェラトンホテルと、高島屋が見える。

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執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

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