日本の近代化を支えた横浜の洋館・建造物・産業遺構「JMAものづくりポータルコラム」

はじめに--東西文化・情報交流の接点としての横浜
 最初に、横浜の洋館などをご紹介するに至った歴史的な流れや背景などを少し。
いま、横浜と聞くと、赤レンガ倉庫、山下公園、みなとみらい、中華街、カップヌードル博物館、ランドマークタワー、パシフィコヨコハマ、大さん橋、日本丸、氷川丸、港のある近代的な観光地、・・・といろいろなことが思い浮かぶだろう。さまざまな施設やイベントが行われ、さながらテーマパークのようだ。
 残念ながら、日本の近代化はここから始まった、といってもピンとこない人の方が多いかもしれない。
 外国文化をいち早く輸入した町、と聞けば、まず、長崎という答えが返ってくる。江戸時代の末期までは歴史で学ぶが、幕末あたりから日本史の授業は怪しくなる。たいていの学校での日本史の授業は、明治維新の前後で止まってしまうために、このあたりから歴史に登場した横浜の街が果たした役割については学ばずに終わってしまっているということになる。
明治維新後の歴史をどのようにとらえ、どのように教えるか、極めて微妙な問題になってしまっているのである。

 歴史をどのようにとらえるか、という問題は専門家に任せるとして、実は、横浜こそ、外国文化をいち早く輸入し、国内への情報・文化の発信地となった街であり、同時に、日本の文化・文物を海外に発信した町なのである。
 そして何よりも、横浜は、その港を通して日本の近代化を進めるための資金獲得に大きく貢献した町なのだ。
ペリーがやってきて、初めて日本に上陸が許され、幕府との間で和親条約の交渉が行われたのは、横浜開港資料館の前だし、咸臨丸も横浜の港からアメリカに出発しているし、外国人が市民と一緒に市中に住むようになったのも横浜の街、ヘボン式のローマ字をまとめたヘボンが住んだのは横浜・山下町だし・・・歴史上の出来事が多く横浜で始まっているのだ。

今では単に近代的な港のある観光地、として知られているが、江戸時代末期以降、西欧文化との接点として、さらに日本が近代化を進めるにあたって、大変に重要な役割を果たした町として、横浜の果たした役割は小さくない。
横浜の街に多くの洋館が残されているが、西欧の歴史的な建造物、重厚長大なものと少し違った、日本式の洋館の魅力をご紹介していきたい。

 安政元(1854)年に日米和親条約を締結した幕府は、各国の要望に押されて安政5(1858)年に5カ国と修好通商条約を締結し、翌1859年に、箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の港を開き、大阪・江戸の市場にアクセスできるようにすることを約束した。
 とはいえ、港や居住地などの整備がむずかしいため、神奈川と長崎を1年後に開港し、新潟を1860年、兵庫を1863年に開港するという段階的な方法をとった。
 当時、多くの外国船が日本近海に出没し、日本を植民地化することを虎視眈々と狙っていた。そんな厳しい環境の中で、幕府にとっての喫緊の課題は、外国の侵略を防ぐことであったが、問題はそのための資金がないことだった。
 そんな中で、横浜港を開港し、開港場に商店を集めて産品を並べたところ、青天の霹靂、生糸が売れることがわかり、幕府は生糸生産・輸出に国の将来をかけることになった。
 こうして幕府は、日本の近代化を進める資金を、生糸の輸出で賄うことになった。歴史の転換点で、たまたま横浜が最初に貿易港として海外に開かれたために、生糸貿易は横浜を舞台に繰り広げられることになったのだが、横浜だったからこそ、信州・上州・東北の産品として生糸が港に持ち込まれたということも言えよう。
そして、日本の生糸頼みの資金獲得は戦後まで続くことになった。
 近代化日本を支えた生糸貿易、生糸商人、つわものたちの建造物、夢の跡を訪ねてみる。

 こうして、幕府は小さな漁村だった横浜を整備し、安政6(1859)年6月2日(旧暦では7月1日)に開港した。 安政元(1854)年の和親条約締結以来、一獲千金を夢見て日本にやってきた商人も多く、喉から手が出るほど商売に飢えていた。
 乾いている砂漠に水をまくように、開港するや否や、偶然のことから生糸が売れることがわかり、うなぎ上りに取扱高は増えて行った。この勢いは、他の港が順次開港しても変わらない。横浜は常に日本の輸出入を最も多く扱う港だった。
図表1は、横浜港での明治元年~41年の輸出入額の変化である(赤が輸出)。
 そして、その中心になったのが図表2に見るように生糸と蚕種だった。
 横浜で生糸が手に入ることを知ると、外国商人たちはますます横浜に集中した。水運を軸に東北・上州・信州で作られた生糸が横浜に集まりやすかったことも大きな利点であった。

 ■横浜の洋館
 和親条約を締結すると多くの外国人が日本にやってきて、通商条約が結ばれた後は、範囲を制限されていたとはいえ、外国人の国内移動も自由になり、科学技術の導入と近代化に専門家が雇われて全国で活躍するようになる。彼らのためにあちこちで洋館が作られるようになり、横浜の街並みが変わっていく。長崎の出島と違って、横浜は市中で外国人が美本陣と並んで生活した最初の街なのである。
 横浜は、これまで2度、大きな災害に見舞われ、街並みが全壊してしまっている。1度目は大正12(1923)年9月1日の関東大震災、そして2度目は第二次大戦中の米爆撃機による25回の空襲である。
 そのため、明治期に作られた洋館は、2,3が残されているに過ぎない。現存する多くの洋館はほとんどが関東大震災以降に建てられたものである。
 どのビルも生糸貿易の全盛時代に、縦横に活躍した商人たちが建てたもので、建造物としても技術的にも当時の最新の工法を採用したユニークなものが多く、また意匠的にも見事に個性を主張していて、興味深いものばかりである。
 歴史や技術の背景などを想像しながら見て頂ければ、世界を相手に奮闘した先人の思いや意気込みの一端をご理解いただけるのではないかと思う。
 

横浜開港50年を記念して、設計を公募して建てられた横浜開港記念館。ジャックと愛称が付けられている塔が横浜のランドマークのようになっている。


図表1:明治期の横浜港が厚かった輸出入の金額の推移である。神戸、新潟などの港が開かれた後も横浜の扱い高は右肩上がりに増えていることが分かる(横浜市史資料編2)。


図表2:横浜港で輸出される荷物の内容を見たものだ。常に生糸が輸出の60%ほどを占めていることが分かる。開港時お茶と生糸が2大商品だったが生糸が圧倒的に大きいことが分かる。


図表3:明治33年(1900年)の日本の繊維産業の素材別の生産額。生糸・絹が半分以上を占めている。

~~~~~~~~
執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

ものづくり特別レポートの無料ダウンロードはこちら