イギリス製機関車を「狭軌」に改造して輸入「JMAものづくりポータルコラム」

 さて、鉄道の開通に合わせて、政府は蒸気機関車10両、客車58両、貨車75両をイギリスから購入した。その10両の蒸気機関車の中で、英国のヴァルカン・ファウンドリーで作られ、最初に組立検査を終了した車両が第一号蒸気機関車と名付けられているが、その第一号蒸気機関車が、北大宮にある鉄道博物館に展示されている。
 蒸気機関車は、車軸配置1Bのタンク機関車で、線路の幅(軌間)は、1,067mmの狭軌。これは、最初はヨーロッパの規格である標準軌の1,435mmにする予定だったが、機関車・客車が大型になりコストがかかることや工事期間の短縮などを考えれば、狭軌にして早期開通を目指した方がよいのではないか、とのモレルのアドバイスを受けて変更されたもの。
 のちに、明治の経済人であった渋沢栄一は、狭軌にしたことを大いに悔やんだそうだが、丘陵や山間部を縫って走る、曲線の多い日本の路線向けには狭軌を選択したことが正解だったのではないか。
 広軌を選択していたら、と悔やんだのは、後に大陸に進出した関東軍など鉄道を敷設する時になって、欧州とのつながりなどを考えて互換性を求めたからであろう。
 もう一つ、悪い癖かもしれないが、ものづくりという観点から大きくて重い蒸気機関車・客車を、どう運んだのか、ロジスティクスが気になるところなのだが、これについては情報がない。
 
 可能性としては、1度イギリスで組み立て、完成検査を終了したところで、再度分解して梱包し、1869年に開通したばかりのスエズ運河を経由して日本に運ぶ。船舶-はしけと積み替え、陸揚げしたところで、横浜駅に設けた車両整備工場に運んで再度組み立てた、というのが妥当なところだろう。ご存知の方がいらっしゃればお教えください。
 蒸気機関車が輸入された1872年当時の港の状況はといえば、大型の貨物船が接岸できる埠頭は、横浜だけでなく、日本のどこの港にもない。横浜港が開かれて貿易が始まったといっても、大型船は沖に係留し、荷物はしけに積み替えて埠頭まで持ってきて、人力で運ぶしかなかったのだ。クレーンもない時代である。
 後に紹介するが、横浜にクレーンが導入されるのが、大正年代に入ってからで、新港埠頭に設置されているイギリス製の50トンのハンマーヘッドクレーンまで重機はないのである。
 もっと言えば、横浜港は、昭和60年ころまで、船から陸-鉄道貨車・自動車、自動車・貨車から船への荷の積み下ろし、積み込みは、人力で肩に担いで荷運びを行う沖仲仕と呼ぶ港湾作業者の人たちに頼っていた。
 ピラミッドや大阪城の石とは違って何十トンもある大きくて重い蒸気機関車を人力で運ぶなど不可能、とすれば分解・再組立てしかない。

 輸入された客車の内訳は、上等車(定員18名)10両、中等車(26名)40両、緩急車8両の計58両だったが、営業したときには、下等車(52名)があり、これは開業前に中等車が改造して作られた。椅子をベンチにして定員を増やしたのである。台車は鉄製だったが、壁や屋根は木製なので、日本人大工でも改造できたのである。
 鉄道博物館に展示されている客車は、下等客車のものと思われるが、木のベンチになっていて、後に内部が改造されたものであろう。蒸気機関車のその後の消息は一部の機関車については明らかになっているが、客車については、詳細はわからない。言い換えれば、蒸気機関車以外は、あまり関心がもたれていなかったということであろう。
 一号機関車は、横浜-新橋の間で稼働した後、明治13(1880)年には、神戸機関車に移動し、明治20(1887)年にボイラーの高さや煙突などが改造され、大阪駅で使用された後、明治44(1911)年には九州の島原鉄道に引き取られ、昭和10(1935)年に引退。1872年から1935年までの73年間現役を続けた老兵は、やっと役目を終えた。それをJRが車両交換で引き取り、保存している。
 残念なことに、主任技師として日本の鉄道建設に尽力してくれたエドモンド・モレルは、鉄道が開通する前年の1871年、試運転を見た所で、病死してしまった。29歳だった。山手の外人墓地に眠っている。


1号機関車の形式図(鉄道博物館)。
 

鉄道博物館に展示されている英国のヴァルカン・ファウンドリー製「陸蒸気」一号機関車と客車1両(鉄道博物館)。
  

日本の鉄道の恩人、初代鉄道建築師長:エドモンド・モレル(EDMUND MOREL 1841-1871)。

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執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

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