神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行)「JMAものづくりポータルコラム」

 みなとみらい線馬車道駅を降りて馬車道に入ると、圧倒的な存在感で右に見えてくる建物が神奈川県立歴史博物館。旧横浜正金銀行本店である。桜木町から歩いても、数分だ。
 現在の建物は、明治13(1880)年に建てられた初代の建物が老朽化したことで、明治37(1904)年に建てられたもので、横浜正金銀行として2代目。設計は赤レンガ倉庫なども設計した妻木頼黄(よりなか)、工事総監督を遠藤於菟(おと)が担当した。
 正面にコリント式の角柱(大オーダー)がならび、ネオバロック様式の構成は、装飾も豊かで見るものを圧倒する。建築に5年も要したという建物は4階建てで高さ16.5メートルだが、屋上にあるドームの塔の部分が19.2メートルある。堂々とした威風は、この塔の存在感も大きい。国指定重要文化財。
 ドームの内部は、実は正八角形ではなく、角度が微妙に違っている。だから見る位置によって微妙に印象が違う。
 北側に博物館としての入り口が増設されている。開港以来の横浜を中心とした資料が収集展示されており、資材とともに建物も興味深く見ることができる。
 
 ■生糸輸出の為替決済
 明治初期、生糸輸出が増えるのに伴って、取引の際の決済をどうするかが問題になってきた。取引相手は、修好通商条約を結んだアメリカをはじめ、フランス、イタリア、イギリス、オランダなどの国から、さらにポルトガル、スペイン、メキシコ・・・と広がる。彼らの通貨と交換できなければ、取引はできない。
 何とかしてほしい、という生糸商人、外国商社の要望をうけて、生糸取引の安定化をめざし、外国商社との取引の決済を仲介する為替専門の銀行として、明治13(1880)年に設立された。
 資本金は300万円で、100万円は大蔵省が銀貨で出資し、残りを民間の企業が集まって出資した。
 業務は、日本商社が海外に販売する際に、代金を外貨で取り立てて日本円に交換して日本商社に支払い、支払いの際には、日本商社の払う日本円を保有する相手国の外貨に交換して売り手である外国の商社に支払うこと。これによって、輸出入の財政政策を管理することにあった。
 
 ■世界3大為替銀行の一つに成長
 以後、神戸、長崎、門司、京都など国内主要都市とともに、ロンドン、リヨン、サンフランシスコ、ハワイ、香港、上海、北京などに支店を設け、明治時代末には世界3大為替銀行の一つと言われるまでに成長した。
 関東大震災で、2階以上の内部と屋上のドームを消失したが、金庫室のある地下の廊下が頑強に出来ていて、多くの周辺の住民がここに避難して助かった。
 その後、長い間放置されていたが、終戦後、GHQによる財閥解体で、銀行としての業務は為替専門の銀行として東京銀行に受け継がれ、建物もそのまま使われた。以後は、三菱東京UFJ銀行と受け継がれている。
 建物は昭和42(1967)年に関東大震災で焼失した屋上のドームを含めて修復・増築され、翌43年から県立歴史博物館として使われるようになった。
 後述するように、横浜では、キング(県庁舎)、クイーン(税関)、ジャック(開港記念館)の3塔が知られるが、この県立歴史博物館の塔に「エースの塔」という名がつけられた。4塔と言われるようになるのも近い気がする。
 

建築に5年を要したという堂々とした威風を感じさせるたたずまい。馬車道に存在感を示している。


正面から見ると、そうは見えないが、高さが19メートルもある屋上のドーム塔。


塔のドームは、関東大震災で、本館と同様に、骨格だけを残して、焼けてしまった。戦後、ドームはそのままに使われていたが、昭和42年に修復され、博物館として現在の姿になった。


世界3大為替銀行のひとつとして、細部まで行き届いた装飾が見事。装飾の一つ一つにそれなりの意味づけがされているので、詳しくは現地で案内を聞いていただくといい。


関東大震災で焼け落ちてしまったが、骨格は残り、多くの人命を救った。その後一部を修復して使用されていた。

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執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

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