居留地48番館遺構「JMAものづくりポータルコラム」

 ■外国商館の遺構
  ここは、明治期、紅茶やダイナマイトなどを扱っていた商人J.P.モリソン(Jmaes P mollison)の事務所兼住宅として建てられた建物の遺構である。関東大震災で崩壊した家の1階の外壁が一部残されている。
 横浜には、1858年の修好通商条約の締結とともに、多くの外国人がやってきて、西洋の文物が一気に入ってきた。しかもそれは、長崎の隔離された出島と違って、一般の市民が生活する隣に、西洋の市民の生活がそのまま入ってきたのだ。
 幕府は、あわてて外国人が住むための地区、居留地を設定し整備を始めた。それが横浜中心部の日本大通りから東側、山手までの間である。居留地には、家や店舗、商品を並べるショールームが建ち、活発な取引が繰り広げられた。

 こうして建てられた建造物は、それまで日本人が経験したことがないような構造のものだったから、多くの外人設計技師が呼ばれて、母国のデザイン、構造・洋式の家が作られた。しかし、残念ながらこれらはすべて、関東大震災で倒壊してしまった。
 そんななかで、レンガや石造りの家があり、倒壊は免れなかったが、一部が、遺構として残った。そんな遺構が見られるのが、本町通りのKAAT(神奈川芸術劇)/NHKの裏にある居留地48番地の建物である。
 場所は、本町通りと山下公園の間、KAAT神奈川芸術劇場の手前を入ったすぐ裏。通りを隔てた向かいでは、高級外資系ホテル、ハイアット リージェンシー 横浜が2020年の完成を目指して工事中だ。
 ここにあったのは、英国人で最も早く、横浜に来た外国人のひとり、J.P.モリソンの自宅兼事務所であった。
 
 モリソンは、1844年に、スコッドランドに生まれ、早くから製茶の販売業をするごとを希望し、上海に渡った時は20歳であったという。そこで開港間もない横浜が製茶の産出が多いことにいち早く目をつけ、横浜で製茶検査人を兼ねて製茶貿易を始めた。
 モリソンが、この48番にJ.C.フレーザーと製茶販売の店を開いたのは慶応3年(1867)のことだった。
 その後グラスゴーのノーベル社製ダイナマイトやその雷管・導火線類を取り扱うようになり、我が国に最初にダイナマイトを輸入したのがモリソンで、我が国の鉱山業の発展に大きな貢献をしたとされている人物である。
 当時は、外国人商人の最古参の一人として信望も厚く、外人商業会議所長や、現在も横浜に続いているクリケッドクラプの部長、横浜文学及び音楽協会長などを歴任していたとか。
 
 案内板に描かれたモリソン商会は、向かって右側に開放的な明るいベランダを持つ事務所と、左側には高い煉瓦壁にかこまれたモリソン邸と思われる4本のイオニア風の柱頭飾りのある円柱を甚調とした重厚なバルコニーを持つ二階建ての西洋館が見える。窓に櫛型のペディメントを飾り、鎧戸を備えたコロニアル様式を示す建物である(「日本絵入商人録」より)。
 遺構の窓からのぞくと、壁は長手/長手/小口/小口の繰り返しという独特なレンガの積み方が見え、日本式家屋の屋根の小屋組みと違った西洋式の小屋組み=トラス構造の木組みが置かれている。
 
 こうした遺構は、本町通りを挟んだ向かいのシルク通りなどにもあり、日本人が建てた洋館と違って、生活の様子を想像させる西洋人による洋館の遺構も興味深い。
 また、外国人が盛んに幕府に売り込んだ大砲などが掘り起こされ、近くに展示されている。ダイナマイトも鉱山に利用されただけでなく当然武器としても利用される。自分の出身国の敵になるかもしれない国に武器を販売する商人たち。商売、取引というものの両面性がうかがえる。明治維新に際しての開港が、単に友好だけで行われたものではなく、一触即発の戦争危機を含んだ状態での取引だったということをこのことが示している。


KAAT(神奈川芸術劇場)/NHKの左側を、山下公園の方に向った次の右角に外人商館の遺構が残されている。通りを挟んで向かいにはホテル・ハイアット・リージェンシーが2020オリンピックを目指して建設中だ。完成すれば、新旧の対比も面白い。


遺構は保護されているが、窓から中を眺められる。屋根の小屋組みトラスの構造が見られる。


案内板。建物の平面図が描かれている。当時の外人による洋館の構造が分かる。

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執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

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