横浜市開港資料館旧館(旧英国大使館)「JMAものづくりポータルコラム」

 横浜港の大さん橋入り口の交差点に面して建つのは開港資料館。旧英国領事館だ。
 横浜の開港は、嘉永7(1854)年に日米和親条約を締結したことに始まる。前年の嘉永6(1853)年、ペリー一行が「四ハイのジョーキセン」でやってきて、アメリカ大統領の親書を持参して幕府に開国をせまる。
 即答できない幕府に、1年後の回答を約束させてその場はいったん引き下がるが、1年を待たず、翌年3月に再度やってきて、開国を迫る。幕府の混乱に乗じて開国を迫ろうという狙いだ。イヤなら攻撃をという脅しをちらつかせながらの再三の要請に、幕府はとうとう断りきれず、横浜の浜辺に上陸を許して、和親条約の交渉を行うことにした。
 日本側は急遽、上陸地の水神社近くに応接所を設け、そこで交渉を行う。
 会談は4度に及び、アメリカが下田に総領事をおくこと、アメリカ船の下田・箱館への入港を許可すること、薪・水・食料・石炭の補給を許すこと、互いに漂流民の救助を行うこと・・・などを定めた和親条約を締結した。
 この時の様子は、ペリーに同行してきた画家ハイネによって、上陸の図として描かれているが、その絵の右端に描かれている玉楠(タブノキ)は、関東大震災で焼けてしまった。しかし、その根から生えてきた若芽(ひこばえ)が、ここの中庭に植えられて大きく成長し、いまは中庭いっぱいに繁っている。
 応接所として使われた場所には、後に、港を作る際に整備され英国領事館が建てられた、そして、ここが、外人用の居留地の区画整理の基準の一角となった。
 その後、英国領事館は大正12年の関東大震災で倒壊・焼失。昭和6年に再度、英国領事館が建設されたが、昭和47(1969)年には業務を終了し、増改築をへて、現在は横浜市の開港資料館の旧館として利用されている。
 
 ■イギリス人の設計による華麗な本格建築
 昭和6年に建てられた英国領事館=横浜開港資料館の旧館は鉄筋コンクリート造り地上3階地下1階、設計は東京のイギリス大使館などの設計も行ったイギリス工務省の建築家J.C.ワイネスで、施工は日本の昭和土木建設が行った。いまと違って、建物内部の構造や機密保持などがそれほど厳密ではなかったのだろう。
 建物の作りとしてはイギリス18世紀のジョージアン様式の特徴がみられ、玄関のファサードは、2本のコリント式円柱が両脇を固め、玄関扉上部には櫛型のブロークン・ペディメントを置く。窓は3連窓で華麗な装飾が施されて、いかにも英王国の気品と落ち着きを感じさせる意匠である。
 この領事館は、領事公邸は別にあったが、特に領事館員、従業員の宿舎を置かなかったため、2階を領事館職員の宿舎に、3階を使用人宿舎に利用し、地下には機械設備を置いた。
 昭和56年(1981年)以降、横浜開港資料館として使用し、新館を増築して、開港時とその後の発展に関する資料を収集・調査・展示・研究活動を行う施設として活用している。
 活動の成果は、常設展、企画展などで一般に公開されているので、関心のある方は一度訪問されることをお勧めします。
 横浜開港資料館(http://www.kaikou.city.yokohama.jp/access/index.html )。
 

  横濱開港資料館前の広場に立つ「日米和親条約締結の地」の碑。この広場には、当時外国人商社員が盛んに売り込みをかけてきた大砲なども置かれている。


  ジョージアン様式をよく表している外観デザイン。すぐ横にある門番所も同じ意匠で一見の価値がある。


  ハイネが描いたペリー一行の和親条約締結のための上陸の図。右の木は水神社にあったタブノキ。


  外壁から内側に下がり、2本のコリント式円柱が左右に置かれた入り口。開口部上の半円形のペディメントの上部が開放され、四角い窓とその上を覆うひさしにつながっている。こじんまりしているが、落ち着いたデザインである。余り大きくない建物に良くマッチした玄関と言えそうだ。

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執筆:梶文彦
写真:谷口弘幸

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